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2013年9月23日 (月)

そもそも「ツールド妻有」とは

 では、お約束の映画製作資金募集のツイートまとめ第一弾・・・

以下の文は、伊藤さんがSNSで連載している文章を許可を得てそのまま転載しています。

 誕生までの経緯

そもそもツールド妻有とは何かというと、妻有に点在するアートや美しい里山の風景を堪能しながら厳しい山道を走る自転車イベントなのです。

「妻有」というのは新潟県の十日町市と津南町をあわせた地域で、信濃川をはさんだ河岸段丘とそれほど高くない山々に囲まれた「米どころ」です。 2000年から3年に1度、「大地の芸術祭・越後妻有アートトリエンナーレ」を開催していて、あちこちに作品が散らばっているのです。

 僕は2000年の「大地の芸術祭・作品公募」で十日町地区の1等をとって「小さな家」という作品を作り、それ以来妻有にかかわり続けています。そのときに現場と宿舎のあいだを自転車で行き来していたのが「ツールド妻有」誕生のきっかけだったかもしれません。

2000年にはいろんな人を連れてあちこち案内してまわったので、だんだん地図を見なくても行きたいところにいけるようになって来て(ほんとは見るんだけど)いろんな風景が目に入ってきました。でも他の人たちは、道に迷わないために必死で周りが見えていないようでした。

これはもったいないから何か妻有全域を移動しながら作品だけじゃなくて風景も楽しめる仕組みを作れないかと考えたわけです。

2000年のトリエンナーレ終了後から、移動しながら妻有地域のいろんなものを見て楽しめる「何か」をすることで、コミュニケーションをとること。分断された集落同士、訪れるお客さんと地域の人をつなげること、をコンセプトに案を考えていきました。

2003年のトリエンナーレの公募には参加せず、ずっと考えてきた案をまとめ、自転車で妻有地域を舞台としたチーム制の自転車レースとして「ツールド妻有」をアートフロントギャラリーに直接プレゼンしました。

これは提案する時期が遅かったからか、案がつまらなかったのかすぐさま却下されました。 この案はだめかと思い、次回の06年向けの公募には「小さな家」を作った下条神明水辺公園の池に折りたたみ式の東屋を作る計画を提案しましたが、似たような計画があるとこれまた却下

後で分かったのですが、なんとそこにはすでにフランスの建築家ドミニクペロー氏が能舞台を作ることが決まっていたのです。これは妻有に行って見てきたという人も多いと思いますが、僕の最初の作品のすぐ隣に立っているかっこいいやつです。

06年のトリエンナーレの公募は04年の早いころから始まり、北川フラム氏が順次目を通し、作家を選んでいたようです。その結果は直筆のはがきで北川さん本人のコメントを入れて採用か否かを通知していたようです。

僕のところにこのはがきが来たときにはすでに多くの作家の参加が決まっていて、友人の何人かは不採用だったということも聞いていました。それで僕のプランは場所も同じ、内容も先に決まったものに似ているとあってボツです。

でもこのはがきには一ついいニュースがありました。それは03年に1度提案した「ツールド妻有」をやらないかというオファーでした。「おっ!これはまだ生きていたのか」、と思いすぐにOKしたわけです。

僕はプランを提出するときには必ず概算の見積りをつけていますが、そのとおりにもらえるほど甘くは無いことは判っているし、この時点でお金の話は一切無しで決まりました。まあ、前にもやっているし何とかなるだろうという感じです。

北川さんはこの案に対してはいくらかの(もしかしてかなりの)勘違いを含みながら、わりと気に入ってくれていて、ずいぶん誉めていただいたという記憶があります。「ツールド妻有を鉢にプレゼントするんだ!」と強く言われていました。

 最初の打ち合わせで北川さんが「鉢にプレゼントしよう」といった意味がぼんやりとしか分かっていませんでしたが、プレゼントになる作品、ということはきっと結構いいことなんだろうな、などと思いながら気分を良くしてその日は代官山から町屋まで自転車で帰りました。

 鉢集落は十日町市ではわりと大きな集落で、住んでいる人のほとんどが尾身さんなので、みんな下の名前で呼び合う仲のよい元気な集落です。2000年にここの墓地を訪れたときに「尾身家の墓」だらけでびっくりしたことを思い出します。

 あとで聞いたことですが、第1回目の越後妻有アートトリエンナーレのときに参加する集落を募ったところ、この「鉢」と僕が「小さな家」を作った下条の2集落だけが手を挙げたらしいです「鉢」はその後もトリエンナーレに積極的だったこともあって、思い入れがあったのでしょう。

 

 下条には前にも書いたペローの「バタフライパビリオン」が06年、12年はみかん組の「茅葺きの塔」が。鉢には09年に「絵本と木の実の美術館」ができ、大人気スポットとなっています。この美術館ができる前の真田小でワークショップができたのはとても幸せなことでした。

「ツールド妻有」というイベントをトリエンナーレの作品として出品することが決まってから、どういうものにしてどのように実現していくのかを考えなければいけなかったのですが、そのために地元の人達とどうやって協働体制を作っていくか、ということも考えなければいけません。

 というより、むしろそちらがメインのテーマでした。今回は「鉢にプレゼントする」という一声で、まずはとにかく一度、僕は鉢に行かなければならないことになりました。いろいろ記憶があいまいですが、多分どこより先に「鉢」に行ったと思います。

 ただ手ぶらで行ってもしょうがないので、何かワークショップを考えて地元のみんなと楽しく作業して、そのあとは妻有らしくお酒でも飲んで仲良くなろう、という感じで、2年後の本番の準備企画として「ツールド鉢」というタイトルのアイデアを考えました。

 このとき、アートフロントギャラリーから、ベテランの石井さんという方が僕の担当としていろいろアドバイスをしてくれました。彼は2000年のときも十日町の担当だったので、そのころからお世話になっている方です。お酒が大好きな方ので、妻有の仕事に向いていると思います

 当初、十日町担当の別の方がいらっしゃったのですが、ツールド妻有は全域にまたがる作品なので、どこの担当でもない石井さんに白羽の矢がたったのだと思います。彼が06年のトリエンナーレで担当するのは僕とあともう一人だけ、確か磯崎さんだったと思います。

 とにかく、ほぼマンツーマンでサポートしてもらえるので僕にとっては最高の環境となりました。

 2004年の夏、鉢の真田小学校でワークショップをすることになりました。真田小はこの時点で生徒はけんた君、ゆうき君、ゆかちゃんの3人だけで、この04年度いっぱいで廃校となる予定なので最後のワークショップになるのです。

 小学生は3人だけですから、中学生、高校生、だけでなく大人も混じってのワークショップとなりました。我が家からも妻と娘が参加しました。この時、中に一人地元の人でもないし、こへび隊でもない大人が混じっており、誰だか謎でした。

 実はこの人物、06年のトリエンナーレにレインボーハットという作品で参加することになる関口さんだっだのです。この時点では出品は決まっていなかったらしいですが。

 内容は単純で、全員を2チームに分けそれぞれのユニフォームを作り、校庭で自転車のリレーをするというものです。チーム名はそれぞれ「毒ヘビ隊」と「絹100%」に決まりました。みんなそれぞれチーム名にちなんだ絵なり文字なりをTシャツに描きました。

 Tシャツを自転車のチームジャージに見立て、校庭でレース「ツールド鉢」の開始です。この地方でよく見る笠をバトンの代わりとしました。

 04年に鉢で、ワークショップ「ツールド鉢」をやったときにはまだツールド妻有がどんなものになるか決まっていなかったし、鉢の人達と協働体制をとって何ができるのかはまったく見えていませんでした。とにかくこういうことを2年後にやるよ。という宣言みたいなものでした。

 ツールド妻有は一箇所にとどまること無く妻有全域を移動していくものなので、キャラバンみたいに鉢の人達についてきてもらうというのは現実的ではないと思っていましたから、何か違う形で参加してもらうようにしなければならないと思っていました。

 アートフロントの石井さんは鉢とは別に「十日町市サイクリング協会」にもアポイントをとってくれました。彼らは前回のトリエンナーレでも仮装をして市街地を自転車で走るような作品に参加しているので、石井さんも話しやすかったんだと思います。

 「十日町市サイクリング協会」というのは協会といっても自転車好きの仲間同士でサイクリングを楽しむ同好会のような集まりで、大会をバリバリ運営するような組織とは違いました。最初の打ち合わせでは自転車の大きなイベントが開催できるのかということには懐疑的なようでした。

 というのも妻有は標高こそ高くありませんが、斜度のきつい山があちこちに散らばっていて、どこを通っても厳しい山道に出くわしてしまいます。そんなところに人を集めるのは容易ではないと思っていたのかもしれません。当時はまだ自転車に乗っている人は珍しかったのです。

 2004年の準備段階ではツールド妻有はどうなっていくのかはまだ何とも言えない状況でしたが、十日町サイクリング協会の方達の協力は必要でした。僕には彼らが自転車でこの地域をつなぐ唯一の引っかかりに思えたのです。

 初日は様子をうかがうような感じでしたが、何人かの方はこんなよく分からないものにも前向きにお話を聞いてくれましたし、協会の若手(といっても僕より年上ですが)水野さんから妻有全域の詳しい地図をいただきました。これはなかなか役に立ちそうな最大の収穫でした。

 この時はやはりお酒を結構飲んだと思いますが、やはり自転車好きなもの同士、一緒に走りましょうということになって、後日十日町サイクリング協会恒例の「おはようサイクリング」に混ぜてもらうことにしました。

 ツールド妻有を成功させるためには何人もの人の協力が必要でした。アートフロントギャラリーの石井さん、鉢集落の人たち、水野さんをはじめとするサイクリング協会の人たち、そしてもう1人、十日町市役所の西野さんです。

 西野さんは若いし初対面なので緊張しているようでした。その頃はまだ自転車に興味もなく、2000年は尾身さんという方が作家何人かでまとめてついてくれまし たが、今回はツールド妻有だけで西野さんを占有してしまいます。 西野さんは若いし初対面なので緊張しているようでした。

 その頃はまだ自転車に興味もないよなので心配でしたが、多分向こうも僕を信用していいのか心配だったと思います。彼はこの時、建築家の僕がなぜ形に残らないイベントをやるのか?というようなことを質問してきました。

 僕は2000年の時も恒久設置作品を作ったし、やはり残るものを作りたいです。 このとき言ったことは、自分でも気に入っていて何度も人に言っているので聞き飽きた人もいるかもしれませんが、しつこく繰り返しています。ツールド妻有のような自転車イベントは一過性のものです。

 これが地元に根付いて毎年繰り返されるようになれば、恒久設置作品と変わらないし、もしかしたらもっと長持ちするかもしれません。 西野さんがどう思ったかはわかりませんが僕自身言ったあとで、これは06年で終らない様にしないといけない、ということに改めて思ったのです。

 それまでもなんとなくぼんやりと、長く続けたいと思ってはいたものの、ほんとに恒久的に続けたいと明言したのはこれが最初だったかもしれません。西野さんのまっすぐな瞳に思わず口をついてでた言葉ですが、それが本心だったと思います。

 ツールド妻有がトリエンナーレのない年にも開催するということがなんとなく決まった夜でした。これが、’06年に始まり’11年の中止をはさんで今年まで8年続くきっかけだったかもしれません。

 この時点ではツールド妻有はチーム単位のレースにしようと考えていました。サーキットのように閉じたコースではなく、地元の人が使う普通の道を使って地元 の人に見てもらえるものにしたいということでした。そうでないと妻有でやる意味が無く他の自転車イベントと変わりません。

 作品や、里山の風景を見ながら、集落から集落へと移動していくなかで、地元の人達から声援を受け、うまくいくとコミュニケーションがうまれる。というイメージです。レースとして成立させるためにはいろいろ越えなければいけないハードルがありました。

 なかでもコースの設定が最大の課題で、このイベントの肝でした。アートフロントギャラリーの石井さんと毎週末とはいかないまでも、かなり頻繁に妻有に出か けました。カーナビはぜんぜん役に立たず、サイクリング協会の水野さんからもらった地図を片手に妻有の車で走り回りました

 おっ、ここは良いぞ、というところは自転車を下ろして走ったりもしました。作品が目白押しの道も、全然無い地域も走りました。 地元の人によさそうな道を教えてもらったりしながらかなりの距離を走ったと思います。冬の田んぼの道で雪にはまって動けなくなったりもしました。

 土曜の朝に代官山をでて、1泊して日曜の夜キナーレで温泉に入って東京に戻ってくる、というのを繰り返していました。石井さんのボーンヘッドで、1年半分の交通費は僕に請求されることは無く、思う存分ロケハンに集中できたのはラッキーでした。

 ツールド妻有をレースとして開催するには、僕にも、十日町市サイクリング協会にも、十日町市にも、アートフロントギャラリーにも経験がないため、東京でJCA(日本サイクリング協会)等に相談をしてみることにしました。

 当時は今のような自転車ブームが来るちょっと前だったこともあり、新しい自転車のイベントが出来ることに期待を持ってもらえたようで、色々と教えていただいたのですが、聞けば聞くほど素人では難しいことのように思えてきました。

 そこで、紹介していただいたのが中島さんという方でした。中島さんはそれまでに幾つかのレースを企画、運営しているので、彼にツールド妻有コンセプトを伝え、これまで妻有を駆け回って探したコースを見てもらい意見を聞くことにしました。

 中島さんといろいろ相談を重ねる中で、レースとしての魅力と、妻有の魅力を活かす、という条件で周回コース2つを含む3つのコースを設定し、3ステージ制のレースを組み立てました。もちろん石井さんと僕でそのコースはすでに試走しています

 コースの一つはちゃんと「鉢」を通るようになっていて、これを土曜の午後に1レース、日曜の午前午後で2レースというスケジュールも立て、警察などと打合せを始めましたが、ここで問題が発生し ました。

 警察が協力するには主催が十日町市などの行政や公共の団体でなければならないというのです。中島さんはこういうことには慣れているので、資料を作って十日 町市に相談に行ったのですが、'06年は市をあげてトリエンナーレに取り組むので協力は難しいと断られてしまったのです

 ツールド妻有をレースとして開催することがほぼ不可能ということになり、もう一度妻有の里山の風景とトリエンナーレの作品のある場所を地図にプロットしてコースを見直してツーリングとしてのコース作りを始めました

 ツーリングとなると、サイクリング協会の水野さんたちの経験が活きてきます。当時妻有は6市町村に分かれていたのですが、ツーリングなら全ての市町村を通ることが出来、見てほしい場所を自由に組み込めます。 より初期のコンセプトに忠実なものになったかもしれません。

 

 次回は「記念すべき第1回開催」につづく
 

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